わたしに謝ることではない、すべて徳川のためじゃ
徳川慶喜
この言葉の背景
井伊直弼が天皇の意見に背いた上、その事実を手紙で伝えたことに、徳川慶喜は激怒した。必死に謝る井伊直弼にその時、言った言葉
安政の大獄とは
安政5年(1858年)6月19日ハリスと交渉を重ねていた岩瀬忠震(ただなり)が日米修好通商条約に調印(締結)してしまう。これは天皇や朝廷の意見に背いた明らかな罪(違勅:いちょく)であった。
これに激怒した国民は攘夷派である斉昭へ期待するようになった。しかし、それに焦った井伊直弼が斉昭をはじめ朝廷とつながる水戸藩士や攘夷はの公家を徹底的に処分(弾圧政策)してしまう。
これにより、公卿や大名など100人以上を処罰、橋本左内、吉田松陰など多くの志士を死においやった
この処分が国民の不満をさらに爆発させ、のちに「桜田門外の変」が起こることとなる。