東洋、特に日本では、陰徳をもって行いの上なるものとし、自分の責任はもちろん、他人の責任までも、これを負うをもって武士道の粋(すい)としている
【「渋沢栄一訓言集」慈善と救済】より
現代の言葉で言うと
東洋的、特に日本的道徳では、よいことをするときは、人知れず為すことこそ素晴らしいとされる。また他人の責任までも自分が負うことが武士道の神髄とされている。
人のせいにしても、自分は一切成長することはない
ある調査でいま代表取締役、社長にまで成り上がりたい!という人が減ってきており、一番の理由は 「大きな責任を負いたくない」からだそうです。
政治家も責任逃れの言葉ばかり使う時代になってしまいました。
確かに責任を負うのは、大変ですし、精神的にも辛いことがあります。自分の責任だけならまだしも、他人の責任まで負うとなると相当な負担になります。
しかし、 成功者や偉人と呼ばれる人たちは積極的に責任を負ってきました。
政治家の田中角栄も「やれ!すべての責任はワシが取る!」と言って、部下からも国民からも厚い信頼を得ることができました。
誰も背負いたくないからこそ、背負う人は称賛されるのです。
そして、責任を背負うということは心を強くするチャンスでもあります。
筋肉は適切な負荷を与えることで少しずつ強くなります。心も同じで自分に適切な負荷を与えることで少しずつ強くなっていくものです。
いきなり最高責任者という、重すぎる負荷は無理でも、部長、課長、リーダーなど役職に合わせて、責任という負荷を背負うことで心を少しずつ成長させていきましょう。
日本古来の美しさ「陰徳」とは
陰徳とは、人に知られずに陰でこつこつと善い行為を行なうことです。
善い行いを表立ってするのは恥ずべきことだと思われていました。
例えば寄付をするときも「無記名」で行うのが陰徳であり、SNSなどで「おれ寄付してやったぜー」と大々的に公表するのは、時に「自己満足」「偽善者」だと思われることがあります。
しかし、陰ながらであろうが、表だってであろうが、善い行いはなされるほうがいいに決まっています。たとえ善い行為の裏に下心があったとしても、偽善であろうが、自己満足であろうが、善い行為自体に意味があります。
しかし、自分の心を美しくきれいにするために善い行いをするのなら、あえて公表する必要はありません。善い行いをするその瞬間、自分の心は満たされ、美しくなるものだからです。